頑張るマンです。鬱と躁を繰り返す双極症当事者です。

どちらかというと、鬱や双極症を支える側の人へ向けた記事かも。
鬱は甘えではない
これは正解。
鬱はやる気を出す出さないの問題ではない。
脳みそという臓器の不全であり、意志力だけでどうにかなる問題ではない。
どれだけ物事が上手くいっていても3億円が振り込まれていても鬱は治らないだろう。
特に双極症の場合は、予定のない3億円が踏み込まれようものなら劇躁になって後から地獄を見るだろう。
これは、脳という臓器の不全であり意思でどうにかなるものではない。
しかし、「鬱は甘えではない」が呪いになる瞬間がある
鬱は甘えではない、という言葉に救われる瞬間もあるし、そうではない瞬間もある。
ワガママに聞こえるかもしれないが、その瞬間の切り替えが鬱当事者にとって大きなターニングポイントとなりうる、と当事者の僕は実際に感じた。
それはどういう時かというと、
無理をしたい。
鬱当事者がそう感じた時だ。
鬱当事者自身が、「甘えてられない、現状を打破する為には無理が必要で今がその時なんだ」とふらふらと立ち上がった瞬間
「鬱は甘えじゃないんだよ」
という言葉が呪いになってしまう。
感覚的には、立ちあがろうとフラフラでも進もうとした瞬間、地面に広がるドロドロの闇の中から伸びる得体の知れない手に足首を掴まれて、引きずり込まれる感覚になる。
「鬱は甘えじゃない」「無理をしなくていい」
希望を手に入れるために動き出した当事者の足首をそんな言葉が呪いの手のように掴んでしまうことがある。
どう声をかければいいの?
私の場合は、ただ見守って欲しい。
もし今、私が支える側になったのなら、相手が動き出すフェーズになったらただの雑談だけをして見守る。
また鬱に戻ってきてもいくらでもやり直せる
そういう言葉は言わずに、常に心の中で想いながら見守る。
沈黙は優しい言葉に勝ることがある
真の平等とは、配慮を「してあげる」つもりで配慮するではなくて、
ただ対等でいることだ。
視力が悪ければメガネをするように、骨折をすれば松葉杖を使うように。
平等な人間として扱うことだ。
優しい言葉だけを言い続けることが、余計な配慮になる瞬間がある。
段階に応じて当事者の感じ方は変わる。
それは、当事者の感じ方が「必要な配慮」から「過剰な配慮」に変わった瞬間だ。
甘えた考えに聞こえるかもしれないが、鬱という脳の不全はそういう病気なのだ。
僕たちが歩こうとした時には、ただ応援して欲しい。
そこが人生の分かれ目になるから。